南米大陸の端にあるフランス領ギアナの首都カイエンヌから、私の首都巡りの旅が始まりました。ここは南米で唯一フランスの一部であり、通貨もユーロが使える不思議な土地です。カイエンヌの市場を歩くと、スパイシーな香りが鼻をくすぐります。その名の通りカイエンヌは唐辛子「カイエンペッパー」の語源にもなった街で、まさに名前まで辛口です。街にはフランス風の建物とカリブの雰囲気が混在し、ヨーロッパとアマゾンが出会う独特の空気を感じます。しかし、陽気な市場の裏にはカイエンヌの歴史の暗い一面も潜んでいます。この地は19~20世紀にかけてフランスの流刑地として悪名高く、多くの囚人が送り込まれ「緑の地獄」「悪魔島」と恐れられていました。沖合いのイル・デュ・ディアブル(悪魔島)には監獄跡が残り、政治犯らが過酷な生活を強いられた歴史が語り継がれています 。革命後に始まったこの流刑制度は第二次大戦まで続き、多くの者が祖国に帰ることなくこの地で生涯を閉じたといいます。私も小舟で悪魔島を訪れ、朽ちた牢獄を目にしたとき、背筋に寒いものが走りました。一方で、カイエンヌには明るい話題もあります。フランス領ギアナは近郊にヨーロッパの宇宙基地があり、ロケット打ち上げの最前線でもあります。夜空を見上げると、未来へ飛び立つ光景に出会えるかもしれません。また、ここからは世界的なスポーツ選手も輩出されています。地元出身のフローラン・マルダ(マルーダ)はフランス代表としてサッカーW杯で活躍したスターです。小さな街カイエンヌから世界へ羽ばたいた彼の存在は、過酷な歴史を乗り越えた地元の誇りと言えるでしょう。
フランス領ギアナから川を渡り、スリナムに入国します。首都パラマリボの町並みはオランダ風の木造建築が立ち並び、南米というよりまるでヨーロッパの小都市に迷い込んだようです。実際、スリナムはかつてオランダの植民地で、1975年に独立した歴史を持ちます。街には17世紀の交易の名残が残り、驚くべき逸話も伝わっています。なんと、1667年のブレダ条約で当時の宗主国イギリスとオランダが和睦した際、オランダはスリナムを、イギリスは代わりに北米のニューアムステルダム(現在のニューヨーク)を得る交換をしました。つまり「パラマリボと引き換えにニューヨークがイギリス領になった」のです。この大胆な土地交換の物語は、スリナムという国の成り立ちを劇的に物語っています。パラマリボの魅力はその多文化共生にあります。町を歩けばヒンドゥー寺院の隣にイスラムのモスク、そしてそのすぐ隣にユダヤ教のシナゴーグが並んでいる光景に出会いました。イスラムのミナレットとユダヤの星が肩を並べるこの街角は、世界でもここだけと言われ、スリナムの寛容な宗教融合を象徴しています。また、人口構成も実に多様です。インド系、アフリカ系、ジャワ(インドネシア)系、中国系など様々なルーツの人々が暮らし、その結果スリナムは「世界で最も民族的・文化的に多様な国の一つ」と称されます。市場ではインド風カレーのロティやインドネシア風麺料理など多彩な料理が並び、一皿ごとに異なる文化の香りを楽しめました。スリナムからは多くの有名人も生まれています。例えば、オランダで活躍したサッカー選手のルート・フリットやクラレンス・セードルフはスリナム系であり、故郷の誇りです。さらに1988年ソウル五輪では、水泳選手アンソニー・ネスティが男子100mバタフライで金メダルを獲得し、スリナムに初のオリンピック金メダルをもたらしました。国の人口は約60万人と小さいながら、このように世界に名を轟かす才能を輩出しています。また、パラマリボの町全体が世界遺産に登録されており、植民地時代の木造建築群は必見です。オランダ風の白い家々を眺めながら、私は多文化国家スリナムの奥深さに感嘆しました。
ガイアナから国境を越え、南米の大国ベネズエラへ。カリブ海に面した広大な国を移動し、首都カラカスに到着しました。標高900mの谷間に広がるカラカスは、高層ビルと山並みが同居する活気あふれる都市です。到着早々、市内中心部のシモン・ボリバル広場に足を運びました。そこには南米解放の英雄シモン・ボリバルの銅像がそびえ立ち、独立戦争当時の情熱が今も息づいているかのようです。ベネズエラは1811年にスペインから独立宣言し、ボリバルらの戦いにより1821年に事実上スペイン支配から解放されました。その歴史ゆかりの地だけあり、カラカスでは彼の生家や大聖堂など、独立戦争にまつわるスポットが点在しています。歴史散策の後は、ベネズエラの文化に触れてみます。夕暮れ時、通りからは陽気なサルサやメレンゲのリズムが聞こえてきて、自然と体が動き出しました。広場では若者たちがスピーカーを持ち寄り即興のダンスパーティーが始まり、私も混ざってステップを踏みます。郷土料理のアレパ(トウモロコシ粉のパンケーキ)にたっぷりのチーズや肉を挟んだ屋台飯を頬張りながら、南米らしい陽気さを満喫しました。さらに驚いたのは、街ゆく人々の美貌です。実はベネズエラは「美人の国」としても知られ、ミス・ユニバースなど国際ミスコンテストでの優勝者数は世界第2位(米国に次ぐ)という記録を持っています。美容学院が各地にあり、国を挙げて“美女”を育成する文化が根付いているとか。現地の方曰く「カラカスでは毎年どこかでミスコンが開かれている」そうで、美への情熱にも国民性が表れていました。ベネズエラと言えば石油も重要です。20世紀に豊富な油田が発見され、一時は南米一の富裕国となりましたが、近年は政情不安や経済危機にも見舞われています。それでも、人々は誇り高く、祖国を「ボリバル革命」で社会主義路線に導いた故ウゴ・チャベス元大統領の肖像が街角に掲げられているのを多く見かけました。政治的意見は様々ですが、ベネズエラ人の愛国心と闘志は強く、まさに独立の英雄ボリバル直伝と言えるでしょう。スポーツでは、ベネズエラは野球大国として有名です。野球は国民的スポーツで、MLBで活躍するスター選手も数多く輩出しています。例えばミゲル・カブレラは2012年に米大リーグで三冠王に輝いた強打者で、彼をはじめアンドレス・ガララーガやルイス・アパリシオなど殿堂級の名選手がベネズエラ出身です。私が訪れたときも、市内の野球場では子供たちが汗を流しながら白球を追っていました。将来の大リーガーを夢見る瞳はきらきらと輝き、カラカスの青空に元気な声がこだましていました。
南米大陸から飛行機でひとっ飛びし、カリブ海の島々巡りが始まります。最初に降り立ったグレナダは、「スパイスアイランド(香辛料の島)」の愛称を持つ小さな国。首都はセントジョージズで、その名に“セント(聖)”が付くとおり、前のジョージタウンとは違って「聖なるジョージ」の町です。カラフルな家並みが丘陵に沿って連なり、美しい天然の入り江には帆船が揺れています。港に降り立つと、どこからともなくシナモンやナツメグの甘い香りが漂ってきました。実はグレナダは世界有数のナツメグ産地で、国旗にもナツメグの実が描かれているほどです。市場ではナツメグやクローブ、カカオなど様々なスパイスが山積みになっており、私は思わずスパイスセットをお土産に購入しました。カリブ海の太陽の下でスパイスの香りに包まれると、この島が「香りの楽園」と称される理由が実感できます。セントジョージズの街並みは可愛らしく、イギリスとフランスの風情が入り混じっています。実はグレナダはコロンブス発見後、フランス人が植民し、その後18世紀後半にイギリス領となった経緯があります。独立は1974年と比較的新しく、以降もしばらく英国連邦王国の一員として英女王を元首に戴いていました。歴史のハイライトとして忘れてはならないのが、1983年のグレナダ侵攻事件です。この年、グレナダでマルクス主義政権内の内部クーデターが起き、首相が暗殺される混乱に乗じて、アメリカ軍と周辺の東カリブ諸国軍が急遽グレナダに軍事介入しました。小さな島国が米ソ冷戦の駆け引きの場となり、一時は世界が注目する事態となったのです。結果的に数日で軍事行動は終結し、秩序は回復しましたが、街には今もその傷跡が残ります。セントジョージズ郊外の要塞跡を訪れると、当時の砲弾痕が残り、平和の尊さを静かに物語っていました。しかし現在のグレナダは平穏そのもの。人々は陽気で、海と音楽とラム酒を愛するカリブらしい日々を送っています。私は港町の小さなバーで、名産のスパイスラムパンチを味わいながら地元の方と言葉を交わしました。話題がグレナダの英雄に及ぶと、皆が口を揃えるのは陸上選手のキラニ・ジェームスです。彼は2012年ロンドン五輪の男子400mで19歳にして金メダルを獲得し、グレナダに史上初の五輪メダル(金)をもたらしました。島を挙げて彼の偉業を祝福したそうで、今でもセントジョージズには彼の巨大ポスターが掲げられています。ジョージ(ジョージ王)の名を持つ首都で、若き英雄ジェームスの笑顔が輝いていたのが印象的でした。
次に訪れたバルバドスは、カリブ海の東端に位置する珊瑚礁の島国です。首都ブリッジタウンはゆったりした雰囲気の港町で、ユニオンジャックを思わせる建物が並ぶ様子から「リトル・イングランド」と呼ばれるのも納得です。バルバドスは1627年以来長らく英国植民地として統治され、他国に奪われることなく一貫してイギリス領だった珍しい経緯を持ちます。1966年に独立して英連邦王国となりましたが、さらに2021年11月30日、ついに君主制を廃して共和国へ移行し、総督だったサンドラ・メイソン氏が初代大統領に就任しました。私が訪れたのはちょうど共和国宣言から間もない頃で、ブリッジタウンの街角には「共和国おめでとう」の横断幕が掲げられ、人々が新たな門出を祝う空気に包まれていました。ブリッジタウンという名前は、大きな橋(Bridge)がかかる町に由来します。実際、市内中心部を流れるケアネイ川に架かる橋のたもとには、かつての造船ドックや植民地時代の議事堂などがあり、世界遺産にも指定された歴史地区になっています。私は国会議事堂の時計台を眺めつつ、かつて砂糖貿易で栄えた往時に思いを馳せました。17~18世紀にはサトウキビ・プランテーションが島を覆い、多くのアフリカ系奴隷が労働に従事させられた過去があります。その末裔が今や人口の約90%を占め、バルバドス文化を形作っています。伝統料理のフライングフィッシュ(トビウオ)とクク(オクラスープで練った粉料理)をいただくと、海と大地の恵みを感じる素朴な味がしました。バルバドスといえば世界最古のラム酒蒸留所の一つがあるラムの本場でもあります。私は老舗のマウントゲイ蒸留所を見学し、そこで造られた芳醇なラムを試飲しました。ラムの香りと味わいは格別で、「海賊たちも愛した」と言われるカリブの魂を感じます。また、この島出身の世界的スターとしてリアーナの存在も外せません。彼女はブリッジタウン郊外で生まれ育ち、今や世界的な歌手・女優・実業家となりました。2021年、バルバドスが共和国になった記念式典では、リアーナが国家的英雄の称号を授与され、会場に本人が登場したことが大ニュースになりました。現地のレストランには彼女の曲が常に流れ、「リアーナは私たちの誇り」と誰もが笑顔で語ります。首都ブリッジタウンの緑豊かな英雄広場は、文学ノーベル賞詩人にちなむ「デレック・ウォルコット広場」と呼ばれていますが、その近くにリアーナの記念碑も建つ日も遠くないかもしれません。スポーツ面では、バルバドスはクリケット強豪国の一角です。伝説的なクリケット選手サー・ガーフィールド・ソバーズはブリッジタウン出身で、イギリス連邦では知らぬ者のない国民的英雄です。ソバーズ卿は「クリケットの神様」と称えられ、島内には彼の名を冠したスタジアムもあります。現地でクリケットの試合を観戦すると、試合の合間にスティールパンの陽気な音色が響き、観客がラムを飲み交わしながら応援する姿に出会えました。まさにバルバドス流のスポーツ観戦で、私も地元ファンに混じって「ヒッツ!(ナイスショット!)」と叫び、気分はすっかり島の一員です。
続いて船で向かったのは、小アンティル諸島の中央に位置するセントビンセント・グレナディーンです。主島セントビンセント島と周辺の小さなグレナディーン諸島からなるこの国の首都はキングスタウン。「王の町」という名前ですが、規模はこぢんまりとした港町です。ここでは同じ「~タウン」でもキングスタウン(セントビンセント)とジョージタウン(ガイアナ)やロードタウン(後述の英領バージン諸島)を混同しないよう注意です。名前は似ていますが、国も場所も全く異なります。例えばジャマイカの首都はキングストン(Kingston)で綴りも違いますので、Kingstown(王の町)はセントビンセント、Kingston(王の町だが綴り違い)はジャマイカ、と覚えると良いでしょう。キングスタウンの桟橋に降り立つと、地元の人々が穫れたてのフルーツを売る市場が迎えてくれました。マンゴーやパンノキ(ブレッドフルーツ)、ココナッツが山積みで、トロピカルな香りが満ちています。実はセントビンセントは18世紀にパンノキを輸入した土地でもあります。英国海軍のブライ艦長(映画『戦艦バウンティ号の反乱』で有名)が、この島にパンノキ苗を持ち込み、奴隷の主食として栽培したというエピソードがあります。現在ではパンノキは島中に茂り、現地のカリブ海料理にも欠かせない食材となっています。私も揚げパンノキチップスを試しましたが、ほくほくしてまるでポテトのような美味しさでした。この国の歴史で忘れてならないのが先住民「ブラックカリブ」ことガリフナの存在です。セントビンセント島にはかつてアフリカから船の難破で流れ着いた逃亡奴隷と先住カリブ族が混血した人々が暮らし、彼らは欧州列強に激しく抵抗しました。18世紀末、ガリフナの指導者ジョセフ・シャトイヤーはフランスの支援も受けて英国に反乱を起こしましたが命を落とし、生き残ったガリフナの多くはホンジュラスなど中米に追放されました。現在ガリフナ文化は中米で花開いていますが、セントビンセントでは彼らの末裔がわずかに残り、その勇敢な歴史は島の誇りとして語られます。キングスタウンから島の北部へ足を延ばすと、巨大な活火山スフリエール山(標高1234m)が聳えています。この火山は時折噴火し、1979年には独立直前の年に大噴火して島民を避難させ、奇しくも同年10月の独立の日には火山灰が島を覆う中で祝典が行われました。そして記憶に新しいところでは、2021年4月9日に約42年ぶりの噴火が起こり、首都キングスタウンを含む島全体が火山灰に覆われる事態となりました。島民約1万6千人が避難する大騒動でしたが、不幸中の幸いで人的被害は少なく、国際社会からの支援で復興が進められました。私が訪れた時も火山は静かで、山頂からはうっすら白い噴気が立ち上る程度。しかし、灰をかぶった木々の跡が所々に残り、大自然の猛威とそれに立ち向かう島民の強さを感じました。文化面では、この国も音楽好きな国民性です。毎年夏には「ビンセマス」というカーニバルが開催され、スティールパンやカリプソ音楽に乗せて盛大なパレードが繰り広げられます。また、若者にはレゲエやソカが人気で、夜のキングスタウンではクラブから最新ヒット曲が流れてきました。国際的に有名な人物は多くありませんが、2003年に世界的ヒットとなった曲「Turn Me On」の歌手ケヴィン・リトルはセントビンセント出身です。一発屋と言われつつも、この曲はいまでもカリブのパーティーアンセムとして愛されています。静かな港町キングスタウンで夜空を見上げると、満天の星が輝いていました。火山の神秘と海の恵みに抱かれたセントビンセント・グレナディーン。その首都キングスタウンの名は、小さくとも誇り高き「王の町」として私の記憶に刻まれました。
さらに北へ船旅を続けると、セントルシアに到着です。フランス語で「聖ルチア島」と名付けられたこの国は、歴史的にフランスとイギリスが領有権を14回も奪い合った「西インド諸島のヘレン(ヘレン=トロイ)」とも呼ばれる地です。まさに絶世の美女ヘレンを巡り争った古代神話さながらに、セントルシアは各国が欲しがるほど魅力的な島だったわけです。最終的に1814年にイギリス領となり、その後1979年に独立しました。首都カストリーズに降り立つと、まず耳に飛び込んできたのはフランス語由来のクレオール語の響きと英語のちゃんぽん。イギリス風の建物とフランス風の地名が混在し、不思議な「フランコ・ブリティッシュ」な雰囲気です。港町カストリーズは小ぢんまりとしており、街中心にはノーベル文学賞詩人デレック・ウォルコットの名を冠したウォルコット広場があります。椰子の木陰で休んでいると、地元の人から「この島は人口当たりノーベル賞受賞者数世界一なんだよ」と教えられました。実際、セントルシアはウォルコット(1992年文学賞)と経済学者サー・アーサー・ルイス(1979年経済学賞)という2人のノーベル賞受賞者を輩出しており、島民の誇りです。小さな島国から文学と経済の両分野で世界的偉人が生まれたことは驚きで、学校でも彼らに関する教育が盛んなのだとか。広場にはウォルコットの詩碑があり、美しい英語とクレオールが織り交ぜられた詩が刻まれていました。そしてセントルシア最大の見所といえば、世界遺産にも指定されているピトン山の双子峰です。島の南西部にそびえる標高770m前後のグロス・ピトンとプティ・ピトンの二つの尖塔状火山は、カリブ海の絶景として知られます。私は早朝にカストリーズを出発し、ピトンの見える町スフリエールまで車で向かいました。道中、島唯一の「ドライブイン火山」と呼ばれる噴気地帯にも立ち寄り、硫黄の香り漂う泥温泉でひと風呂浴びます。肌がすべすべになったところで展望台に登ると、エメラルドグリーンの海からニョキっと顔を出す二つの峰が目前に!青い海と空を背景にそびえるピトン山は圧巻で、その神秘的な姿に息を呑みました。地元では「神様が残した双子の歯」とも称されるそうで、確かに巨人が地面から覗かせた牙のようにも見えます。雲ひとつない空に映える双子峰を眺めながら、私はこの光景を一生忘れないだろうと思いました。カストリーズに戻るとちょうど街はカーニバルの準備中。セントルシアでも夏にはカーニバルが開催され、カリプソのコンテストや色鮮やかな衣装行列が島を熱狂させます。音楽好きな国民性で、路上ミュージシャンがギターや太鼓で即興セッションを始めると、周囲の人々も歌い踊り出す陽気さです。私は市場で新鮮な魚介を使ったブイヤベース風シチュー「ブイヤベスト」を味わいつつ、店の主人とおしゃべりを楽しみました。フランスの影響を色濃く残すセントルシアでは、食文化もフレンチテイストが感じられます。パン屋では美味しいクロワッサンが売られていたりして、カリブの中でもちょっと異色のグルメが楽しめました。夕暮れ、港に沈む夕日を眺めていると、二本のピトンが遠くにシルエットを浮かべています。カストリーズという響きはフランス語名らしくエレガントで、私の頭の中では「カストリー 図書館で本を読む」と勝手な語呂合わせが浮かびました(実際に立派な国立図書館もあります)。ヘレンの異名を持つこの島は、争奪戦の歴史を経て多文化を包み込んだ女神のよう。首都カストリーズはその女神の優雅さとたくましさを映す、小さく美しい港町でした。
次に向かったのは、しばし名前が紛らわしいドミニカ国(ドミニカ共和国とは別の国です)。こちらは英語名で「Commonwealth of Dominica」と呼ばれ、フランス語読みではドミニーク。カリブ海でも指折りの自然豊かな島で、「ナチュラル・アイランド(自然の島)」とも称されます。首都ロゾーは人口2万にも満たない小さな町ですが、背後に聳える山々からいく筋もの川が流れ込み、豊富な水に恵まれています。島全体で川の数は365本、「一年の毎日違う川で泳げる」と冗談で言われるほどです。私が訪れた日も前夜のスコールの後で、山から勢いよく水が流れ出し、町のそばを流れるロゾー川は轟々と音を立ててカリブ海に注いでいました。ロゾーの街並みはフランスとイギリス双方の影響が感じられます。18~19世紀、この島も所有権が目まぐるしく移り変わりましたが、最終的にイギリス領となり、1978年に独立しました。メインストリートを歩くと、カラフルな木造家屋の間に石造りのフランス風カテドラルが立ち、道路標識は英語、しかし人々の話すクレオール語はフランス語由来という不思議な感覚です。市場では山の恵みであるタロイモやパンノキ、カカオ、バニラなどが売られ、島全体がひとつの大きな有機農園のよう。特にドミニカ国はカリブ海で唯一、先住民カリブ族(自称カリナゴ)の居留地が残る国として知られます。1903年、英領政府が島北東部に先住民保留地を設定し、現在まで約3,000人のカリナゴの人々がコミュニティを維持しています。私はカリブ族の集落を訪ね、伝統的な編みカゴ細工やカリブ語地名の話など興味深い文化を教わりました。先住民が今も暮らす島はカリブでここドミニカだけで、彼らは自らの言葉でこの島を「ワイトゥクブリ(身体が長い、つまり山が高い島)」と呼ぶそうです。手付かずの自然と共に生きる姿に、真の「自然島」の姿を見た思いでした。ロゾー近郊には世界第二位の規模を誇るボイリング・レイク(沸騰湖)があります。私はトレッキングツアーに参加し、ジャングルを何時間も歩いてこの神秘の湖に辿り着きました。山中の火山性の湖は灰色に濁った水がぐつぐつと煮えたぎり、まさに地球がお湯を沸かしているかのような不思議な光景!硫黄の匂いが立ち込め、辺りは水蒸気で白く霞んでいました。湖の縁でガイドが生卵をそっと入れると、なんと数分で温泉卵が完成。大地のエネルギーをおいしく(?)頂くという貴重な体験でした。このモーン・トワ・ピトン国立公園一帯は世界遺産にも指定され、無数の滝や温泉、熱帯植物の宝庫です。まさにジュラシック・パークの世界で、映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』のロケ地にもなりました。街に戻ると、ロゾーの人々はゆったりと午後を過ごしていました。木陰では年配の男性たちがドミノゲームに興じ、女性たちはカリブ伝統のマドラスチェック柄の衣装を着て踊っています。ここドミニカ国も例にもれず音楽好きで、カリプソやレゲエ、ブイヨン(独自のフュージョンサウンド)などが流行しています。世界的に有名な出身者は少ないですが、1980年代に活躍した女性首相、デイム・ユージェニア・チャールズは「カリブの鉄の女」と呼ばれた政治家でした。チャールズ首相は米国のグレナダ侵攻を強く支持したことでも知られ、当時マーガレット・サッチャー英首相になぞらえてそう呼ばれたそうです。ドミニカ国初の女性首相として3期15年も務めたその姿は、今も国民に尊敬されています。小さな港町ロゾーの夕暮れ、私は港の防波堤に腰掛け、オレンジ色に染まる海と山々を眺めていました。島を包む虫の声と潮騒が心地よく、心身が自然と一体になるような静けさです。「ロゾー(Roseau)」という名はフランス語で「葦(アシ)」を意味し、かつて川沿いに葦が茂っていたことに由来するそうです。喧騒から離れ、葦が揺れる音に耳をすませば、自然が奏でる子守歌に癒やされる緑の楽園。それがドミニカ国であり、その首都ロゾーでした。
次に訪れたのは二つの主要島からなるアンティグア・バーブーダです。カリブ海東部のリーワード諸島に位置し、コバルトブルーの海に囲まれた美しい国。首都はアンティグア島のセントジョンズで、「聖ジョン」という名の港町です。ここでまた首都名に“セント”が出てきましたが、セントジョージズ(グレナダ)やセントジョンズ(アンティグア)、そしてこれから行くロードタウンなど、聖人の名や英語の単語+タウンの首都が多いので混乱しないよう整理します。セントジョンズはアンティグア、セントジョージズはグレナダ、と頭の中で聖人を結びつけておきます(「アンティグアのジョン、グレナダのジョージ」と覚えると良いでしょう)。セントジョンズの港には大型クルーズ船が停泊し、多くの観光客で賑わっています。カリブ海クルーズの人気寄港地の一つであり、市内には免税店やお土産屋が立ち並び活気がありました。街の背後には小高い丘があり、その上に真っ白なセントジョンズ大聖堂がそびえています。1840年代に再建されたこのバロック様式の聖堂は、街を見下ろすランドマーク。内部にはイギリスから運ばれた精巧な木彫やステンドグラスが飾られ、アンティグアの豊かな植民地時代を偲ばせます。アンティグア島は「365のビーチがある」と言われ、一年毎日違うビーチに行けるほど海岸の美しさが有名です。私も午後には有名なダークウッドビーチへ足を運び、真っ白な砂とターコイズブルーの海に魅了されました。珊瑚礁の間をシュノーケリングすると、カラフルな熱帯魚が舞い、南国の海を存分に満喫できます。ビーチでは売店で新鮮なココナッツジュースを買い、ヤシの木陰で一休み。地元の子供たちが楽しそうに海ではしゃぐのを眺めつつ、「ここが楽園か…」としみじみ思いました。歴史好きの私は、アンティグア島南部のネルソンズ・ドックヤードにも足を延ばしました。18世紀後半、イギリス海軍の提督ホレーショ・ネルソンが駐留した海軍基地跡で、当時の造船所や倉庫が美しく保存・修復されています。ここはユネスコ世界遺産にも登録され、英国帆船時代の雰囲気を今に伝えます。桟橋には現在もヨットが係留され、昔は軍艦、今はヨットと形は違えど船乗りたちの社交場です。ネルソン提督も愛したというラムパンチを片手に、マリーナで吹く潮風に当たると、自分が英国紳士淑女になったような錯覚に陥りました。アンティグア・バーブーダ出身の有名人といえば、まずクリケットの英雄たちです。かつて西インド諸島代表で世界を制したサー・ヴィヴィアン・リチャーズはアンティグアの出身で、母国の誇りです。首都セントジョンズには彼の名を冠したクリケット競技場があり、地元では試合の日ともなると島中がラジオにかじりついて声援を送ります。また文学では、『ルシア箴言集』で知られる作家ジャマイカ・キンケイド(女性作家ですが名前に「ジャマイカ」とあるユニークなペンネーム)はアンティグア生まれです。さらに芸能では、現在ハリウッドで活躍する俳優ベン・キングズレー卿の母親がアンティグア出身という繋がりも。小国ながら多彩な顔ぶれに驚かされます。アンティグア島から小型機に乗り、双子のもう一つ、バーブーダ島にも日帰りで訪れました。人口わずか1500人ほどの平坦な珊瑚島で、手つかずの自然が残ります。ピンク色の砂浜が続くピンクサンドビーチを独り占めし、ウミガメの泳ぐ姿を見たとき、「秘境」という言葉が頭に浮かびました。2017年にハリケーン・イルマが直撃して島民が一時全島避難する惨事もありましたが、その後見事に復興を遂げています。帰りのセスナ機から見下ろすバーブーダ島のラグーンに夕日が映え、なんとも言えぬ幻想的な光景でした。再びセントジョンズに戻り、この町にも別れを告げる時が来ました。教会の鐘の音が響く中、私は心の中で「セントジョンズ、聖なるヨハネの港よ、さようなら」とつぶやきました。カリブ海航路の要衝として栄えたこの地は、今なお陽気で豊かなもてなしの精神に溢れています。首都セントジョンズの名はアンティグア・バーブーダの人々の温かな笑顔とともに、私の旅のアルバムに刻まれました。
次は再び北上してセントクリストファー・ネイビス、通称セントキッツ・ネイビスへ。カリブ海で最も小さな連邦国家で、セントクリストファー島(通称セントキッツ島)とネイビス島から成ります。首都はセントキッツ島のバセテールで、これはフランス語で「低地」を意味します。名前に“Saint”こそ付きませんが、フランス語風の響きが過去のフランス統治を物語ります。島名のセントクリストファーはコロンブスが付けた聖人名で、ネイビスはスペイン語で「雪」(山頂の雲を雪に見立て命名)に由来するなど、多国の影響が混ざり合うのが興味深いところです。バセテールの街はカリブらしいのんびりした雰囲気です。港に面したインディペンデンス広場(独立広場)はかつて奴隷市場が開かれた場所でしたが、今は美しい噴水と花壇が整備され、憩いの場となっています。木陰では家族連れがピクニックを楽しみ、子供たちが追いかけっこをしています。その様子を眺めながら、この国が1983年にイギリスから独立してまだ若い国家であることを思い出しました。人口はわずか5万人強と、首都バセテールもこぢんまりしていますが、人々の誇りは高く、島々の歴史と文化を大切にしている印象を受けます。セントキッツ島では、18~19世紀にサトウキビ農業が盛んでした。その遺産を見るべく、私はブリムストーンヒル要塞公園へ足を伸ばしました。ここはかつて「西インドのジブラルタル」と称された堅固な要塞で、フランスとの戦争を経て英国が築き上げた防衛拠点です。山上に広がる石造りの砦からは360度の大海原が望め、かつての列強の執念を感じます。ユネスコ世界遺産にも登録されたこの要塞は、島の軍事史を今に伝える貴重な存在です。砦から遠くにネイビス島が雲に浮かぶように見え、その美しさに目を奪われました。ネイビス島へは高速フェリーで約30分。古都チャールズタウンに上陸すると、石畳と古風な建物が残る静かな港町でした。ここネイビス島は、アメリカ建国の父アレクサンダー・ハミルトンの生誕地として知られています(彼の生家跡は博物館になっています)。またイギリス海軍提督ネルソンが妻と出会った地でもあり、歴史ロマンに満ちています。私はカフェで名物のネイビスマンゴーを使ったスムージーを飲みながら、小島のゆったり流れる時間を満喫しました。セントキッツ島とは海を隔ててわずか3kmほどしか離れていませんが、ネイビス島のほうがさらにのんびりとして、観光客も少なく、手つかずの楽園といった雰囲気です。スポーツでは、この小国も他の英語圏カリブ同様クリケットが盛んですが、近年では陸上短距離でも名を上げました。セントキッツ出身のキム・コリンズ選手は2003年世界陸上男子100mを制し、一躍国民英雄となりました。首都バセテールでは彼のゴールドメダル獲得を祝う大パレードが行われたそうで、それ以来コリンズのゼッケン番号「431」が若者にラッキーナンバーとして親しまれているとか。夜、バセテールの目抜き通り「ザ・サーカス」にある時計台(街のランドマークです)を眺めつつ夕食をとりました。塩漬けタラと豆のシチューにご飯を添えた郷土料理スティューは素朴で滋味深く、体に染み渡ります。店のテレビでは地元ニュースが流れ、「本日のトップは政府観光局、観光客数が過去最高を記録」という明るい話題。小国ながら前向きなエネルギーを感じます。バセテールとは「低地」の意味ですが、その名に反して人々の志は高く、カリブ海に輝く小さな宝石のような国だと思いました。
いよいよ私の旅も最終盤。最後の目的地はイギリス領バージン諸島(BVI)です。米領バージン諸島のすぐ東隣に位置し、50以上の島々からなるイギリス海外領土で、まだ独立していない地域です。主要な島はトルトラ島で、首都ロードタウンもその島にあります。飛行機でトルトラ島へ降り立ち、車で港町ロードタウンへ向かいました。ロードタウンとは「Road(船舶の碇泊地)=錨泊地の町」という航海用語に由来する名前で、かつてこの港が船の停泊地として重要だったことを示しています。実際、天然の良港であるロードタウンの湾にはヨットや帆船が数多く停泊し、まさに「世界のヨットハーバー」といった景観です。ロードタウン中心部に着くと、まず感じたのはアメリカドルが通用する経済圏だということ。ここBVIでは1959年以来通貨に米ドルが使われており、経済的にもお隣の米領との結びつきが強いのです。店先の価格表示も$表記で、一瞬アメリカにいるような錯覚を覚えます。とはいえ町並みはカリブらしく、低層のカラフルな建物が並び、ヤシの木が道端に揺れています。中心街のファーマーズマーケットでは島で採れたばかりのグアバやスターフルーツが売られ、思わずいくつか購入して頬張りました。甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がり、旅の疲れも吹き飛びます。BVIといえば高い自由度の経済と美しいビーチで知られます。金融面では、ここはタックスヘイブン(租税回避地)として多くの海外企業が籍を置き、一人当たりGDPは世界トップクラスという顔を持ちます。一方観光では、バージンゴーダ島のザ・バスが特に有名です。巨大な丸石がゴロゴロと砂浜に転がる奇景で、海水が洞窟状の空間に満ちてまるで天然の海水浴プールです。私は日帰りでバージンゴーダ島に渡り、その絶景を目に焼き付けました。陽光が水中の白砂に反射し、巨岩の間に青い光のカーテンが揺れる様は夢心地の美しさでした。まさに「神様の浴場(The Baths)」の名にふさわしいスポットで、シュノーケリングではカラフルな魚たちとも戯れました。ロードタウンに戻った夕方、私は最後の夜を楽しもうとシーフードレストランに入りました。新鮮なロブスターをガーリックバターソースで焼いた逸品に舌鼓を打ちながら、窓の外に停泊するヨットのマスト灯りを眺めます。ここBVIは「ヨットの聖地」で、世界中からセーラーが集います。マリンスポーツ好きにはたまらない環境で、私も次回来るときはぜひヨットをチャーターして島々を巡ってみたいと思いました。食後、バーで地元産ラムを使った「ペインキラー」というカクテルを注文。パイナップルやココナッツとラムを合わせたこの飲み物はBVI生まれで、南国の風味いっぱいです。ほろ酔い気分で外に出ると、澄んだ星空が広がっていました。港の桟橋を散歩しながら、この旅路を振り返ります。フランス領ギアナのカイエンヌに始まり、幾つもの国境と海峡を越えてたどり着いたロードタウン。名前の通り「道(Road)」の旅の果てに辿り着いた街です。波穏やかな港に揺れるヨットの灯りが道標のように私を迎えてくれているようでした。最後に、私は桟橋の先端で静かに海に向かって手を合わせました。かつてコロンブスはこの群島を「聖ウルスラと11000人の処女」にちなみ「ヴァージン諸島」と命名したと言います。そのロマンチックな伝説に思いを馳せつつ、無事旅を終えられたことへの感謝を捧げました。首都ロードタウンの名を心に刻み、明日私は帰路につきます。