プロローグ 祖父の書斎を整理していたとき、一冊の古びた手帳が見つかった。革表紙のその手帳には、祖父が若い頃に旅した東アフリカとインド洋の国々の記録が綴られていた。エリトリア、ジブチ、エチオピア、ソマリア、セーシェル、ケニア、タンザニア、コモロ、マダガスカル、マラウイ——聞き慣れない国名も混じる10カ国の名前が丁寧な字で並んでいる。祖父は歴史研究者で、これらの国々にまたがる古代文明のつながりを追っていたらしい。 私は子供の頃から祖父の冒険譚を聞いて育った。祖父の口癖は「歴史は地図の上だけでは分からない。自分の足で大地を踏みしめ、風を感じて初めて理解できるものだ」というものだった。その祖父が遺した手帳には、途中まで記録があったものの、肝心の謎の核心については「…この目で確かめねばならない」と途中で文章が終わっていた。まるで続きを私に託しているかのようだった。 私は勇気を出して決心した。祖父が果たせなかった旅の続きを、自分が引き継ごう。そして祖父が追い求めた「歴史的な謎」を解き明かそう。幸運なことに、学生時代からの友人であるリナとタクヤがこの計画に乗ってくれた。歴史好きのリナは「面白そう!首都の名前も全部覚えちゃおう」と目を輝かせ、旅慣れしてユーモアたっぷりのタクヤは「インディ・ジョーンズみたいじゃないか。お宝の匂いがするぜ!」と冗談めかして拳を突き上げた。 かくして、私たち三人の冒険が始まった。祖父の足跡を辿り、東アフリカとインド洋の島々を巡る長い旅へ——。 第1章 エリトリア――首都アスマラで旅の始まり 飛行機を降り立った私たちは、エリトリアの首都アスマラにいた。標高2,300メートルの高原都市アスマラの空気は澄んでいて、強い日差しの下、街並みがどこか懐かしいヨーロッパの香りを漂わせている。通りに並ぶ建物はアール・デコ調やイタリア風のバルコニーを備え、「ここ、本当にアフリカ?」とタクヤが首をかしげる。「ムッソリーニが『第2のローマ』を目指して建設した街だからね。イタリアの建築家たちが腕を振るった結果さ」とリナがガイドブックをめくりながら答える。1920~30年代にイタリア植民地だった頃に建てられたモダンな建築群のおかげで、アスマラは「アフリカのモダニズム都市」として2017年に世界遺産にもなっているのだ。 私たちは街の中心部を歩き回った。カフェに入ればエスプレッソの香りが漂い、通りを走るベスパ(スクーター)が絵になる。タクヤはカプチーノを一口すすり、「ん!本場の味だ。アフリカでイタリアの味に出会うとは」と瞳を輝かせた。私は祖父の日記を取り出し、エリトリアのページを開く。祖父も同じようにこのカフェでコーヒーを飲んだのだろうか——そう思うと胸が熱くなる。 祖父の日記にはこう記されていた。「アスマラにて。イタリア統治時代の建物の影に、もっと古い歴史の気配を感じる。この地はかつて古代文明の交差点だった。」私はページを指でなぞりながら、窓の外に目をやった。現代的な街並みの遥か遠く、紅海の方角に歴史の舞台が広がっている気がした。 リナが地図を広げながら言った。「エリトリアって、歴史的にエチオピアと一緒に語られることが多いわよね。古代のアクスム王国とか、この辺りにあったんでしょ?」 彼女の言葉に私はうなずく。「そう、アクスム王国は今のエリトリアとエチオピア北部に繁栄した古代帝国だ。4世紀頃には独自の硬貨を鋳造して、遠くインドやローマとも交易していたというから驚きだよね。」タクヤが目を丸くする。「ローマとインドとも?随分スケールがでかい話だなあ。エリトリアにそんなすごい歴史があったとは!」 「実はもっと古い繋がりもあるの」とリナが声を弾ませる。「古代エジプトの女王ハトシェプストも、この地域と交易していた記録があるのよ。香料や黄金を求めてエリトリアやソマリア方面の『プント国』に船団を送ったって。エジプトにはプント国の女王の絵も残っているくらい。」私はその話に頷いた。祖父の日記にも同じことが触れられていたからだ。「プント国…紅海の西岸一帯に栄え、エジプトとも交流があったという伝説の地。このエリトリアにもその面影が残る。」と記してある。 タクヤが鼻をくすぐるコーヒーの香りに満足げに頷きながら冗談めかした。「つまり、このアスマラで飲んでるコーヒー豆も、昔はエジプトに輸出されてたかもしれないってことか?」「コーヒーがエジプトに伝わったのはもっと後のイスラム世界経由だから、それは違うわね」とリナが笑う。「でも、エリトリア高原では紀元前から農耕や牧畜が行われてて、エジプトとも物々交換してたかもしれないわ。考古学者がエジプトのビーズを見つけたりしているし。」 歴史談義に花を咲かせていると、ふと私は祖父の日記の次のページに挟まれていた一枚の古びた硬貨に気がついた。掌に載せると、それは片面に古代文字と王の横顔、もう片面に十字架のような紋様が刻まれた金色のコインだった。「何だろう、これ…」リナが息を呑む。「もしかしてアクスム王国のコインじゃない?アクスムはアフリカで最初に硬貨を作った国だったはず。」「祖父がここで手に入れたのかもしれない」と私は呟いた。そのコインはまるで祖父が次の目的地を示しているかのように感じられた。 コインの縁には擦り切れた文字が刻まれていた。リナが目を凝らして読む。「…Adulis…って読めるわ。アドゥリス?何かしら?」私ははっとした。「アドゥリスは古代の港の名前だよ。ここエリトリアの紅海沿岸にあったアクスム王国の港町さ。きっとこのコインは海を渡ったんだ。」タクヤが身を乗り出す。「海を渡ったって、どこへ?」「インド洋のどこかへ。そして祖父はその航路を追って、このコインの行方を探ろうとしたんだと思う。」私は次の行き先を見据える。祖父の日記にも次に訪れた国の名が記されていた。 「次はジブチだね。」私がそう告げると、タクヤは地図上の小さな国を指して声を上げた。「ジブチ?あの、アフリカの角の端っこの?」「そう、紅海の入口にある国だ」と私は微笑む。「さあ、祖父が辿った航路を、僕たちも追いかけよう。」 第2章 ジブチ――「涙の門」と灼熱の砂漠 真っ青な空の下、私たちはジブチ共和国の首都ジブチ市に到着した。エリトリアから紅海沿いに南下し、小さな船でたどり着いた港町だ。桟橋に降り立った途端、むっとする熱気と塩の香りが押し寄せてきた。「うわあ、まるでサウナだ…」タクヤが額の汗を拭いながら呻く。気温は日中40℃近く、雨もほとんど降らない土地だ。街にはラクダ市場があり、砂埃と香辛料の匂いが混じって異国情緒たっぷりだ。「首都ジブチ市の人口は国全体の大半が集中しているんですって」とリナが雑誌の記事を思い出しながら言う。「フランス語とアラビア語が飛び交ってるわね。」 ジブチ市内を歩くと、港には世界各国の船舶が停泊し、沖合には巨大なタンカーがゆっくりと行き交っていた。ここはアデン湾と紅海を結ぶ要衝で、まさに海上交通の十字路だ。「あれが噂のバブ・エル・マンデブ海峡(Bab-el-Mandeb)か…」私は遥か彼方、海峡の向こうに霞む陸地を指さした。アラビア半島とアフリカ大陸の隙間に位置するその海峡は、別名を「涙の門」という。リナがそっと説明してくれる。「昔、この海峡を越えるのは危険で、多くの船乗りが命を落とした。それで『涙の門』なんですって。」タクヤが肩をすくめた。「暑さで流す涙じゃないのか?俺は既に泣きそうだけどな、この暑さで。」私とリナは思わず吹き出した。 汗をぬぐいつつも、私たちは歴史の痕跡を探してジブチ市を巡った。フランス植民地時代の面影を残す白い建物、その脇を縫うように走る一本の古い鉄道線路。「これはもしや…」と鉄道好きのタクヤが目を輝かせる。「そう、かつてのジブチ・アディスアベバ鉄道の跡だよ。」私は頷いた。1917年に開通したこの鉄道は、内陸のエチオピア(当時アビシニア帝国)の首都アディスアベバまでを結び、エチオピアの貿易路として機能した。祖父の日記にもこの鉄道のことが書かれている。「灼熱のジブチにて。フランス人が敷いた鉄路は、内陸アフリカと海を繋ぐ動脈だ。古の隊商路がレールに姿を変えただけに過ぎない。」 「隊商路って?」タクヤが首をかしげる。リナがすかさず解説した。「昔は列車なんてないから、ラクダのキャラバン=隊商がエチオピア高原から塩や香料、黄金なんかを運んで紅海の港まで来ていたのよ。ジブチの近くのアッサル湖では塩がとれるでしょう?そこから塩のキャラバンが出発してたって話もあるわ。」私たちは次の目的地に思いを馳せた。ジブチからさらに東へ進めば、インド洋に出る。古代の商人たちは紅海を下ってこの先どこへ向かったのだろうか。 夕暮れ時、私たちは港の岸壁に腰掛けてオレンジに染まる海を眺めていた。遠くにはバブ・エル・マンデブ海峡の水面がきらめいている。祖父のコインを手に取り、私は陽の光に透かしてみた。「このコインも、きっとこの海峡を通ったのね…」とリナが呟く。私は頷いた。「アドゥリスから出た船が、ここを経てアラビア海へ入ったはずだ。その航路を祖父は追っている。」タクヤが立ち上がり、帽子をかぶり直す。「次はいよいよ大海原に乗り出すってわけだな。海賊とか出ないだろうな?」彼は冗談めかしてウインクしてみせた。「大丈夫、大昔の話だよ」と私は笑った。「それに、僕たちには祖父の記録がある。きっと次の行き先もね。」 祖父の手帳を開くと、次の目的地として「エチオピア」の文字があった。高原の古都で彼は何を見たのだろう。「エチオピアかあ、アディスアベバに行けるのかな?」リナが地図を覗き込む。「もちろん。鉄道がなくてもバスか飛行機があるさ」とタクヤ。私たちは次なる冒険に胸を高鳴らせながら、夜風に吹かれるジブチの港をあとにした。 第3章 エチオピア――古代帝国の記憶と「新しい花」 灼熱の海辺から一転、飛行機で高原の都市に降り立つと爽やかな風が吹き抜けた。エチオピア連邦民主共和国、首都アディスアベバ。標高2400メートルを超えるこの都市の名は現地の言葉で「新しい花」を意味するという。空港から市内へ向かう車中、タクヤが「アディス…アベバ…アベベ?」と何やらつぶやいている。リナがくすりと笑った。「それはマラソン選手のアベベ・ビキラよ。確かにエチオピア出身だけど、首都の名前はアディスアベバ。」タクヤは照れくさそうに頭をかいた。「覚えにくくてさ。よし、アディスアベバ、アディスアベバ…連呼して覚えるしかないな!」 市街地に入ると、大通りには高層ビルと古い教会が混在し、活気にあふれていた。人々の衣装も様々で、西洋風のスーツ姿からカラフルな伝統衣装ガビを纏った女性まで行き交う。リナは興味津々で窓の外に目を輝かせる。「エチオピアは独自の文化が本当に豊かね。だって文字だってゲエズ文字って独自の文字体系を持ってるし、キリスト教も4世紀頃からある最古級の国だもの。」私はうなずいた。「そうだね。この国はアフリカで唯一ヨーロッパ列強に植民地支配されたことがない歴史を持っているんだ。19世紀末のアドワの戦いではエチオピア軍がイタリア軍を打ち破って独立を守ったんだよ。」タクヤが驚いた顔で振り向く。「へえ、そんな歴史が!やっぱりただ者じゃないわけだ、この国は。」 私たちはまずエチオピア国立博物館を訪れた。目的は祖父のコインの手がかりを掴むことだ。館内にはエチオピアの長い歴史を物語る展示品が所狭しと並ぶ。石器や王冠、宗教画。その中でひときわ人だかりができていたのは、ガラスケースに横たわる小さな骨の化石だった。「ルーシーだ…!」リナが感嘆の息をもらす。人類の祖先の一つ、約320万年前の猿人“ルーシー”の骨格標本だ。タクヤが目を丸くする。「320万年前!?エチオピアには人類の祖先まで眠ってるのか…スケールでかすぎ。」私はしみじみと呟いた。「アフリカは人類のゆりかごと言われるけれど、まさにこの地から僕らの物語も始まったのかもしれないね。」 本題に戻ろう。私は持参した祖父のコインを館の学芸員に見せてみた。博物館の学芸員は老眼鏡越しにそれを眺め、「これは古代アクスム王国の硬貨ですね」と即答した。やはりそうだ。彼は続けて説明してくれた。「4世紀頃のものでしょう。片面の王の横顔とギリシャ語の銘文、もう片面には十字架の意匠があります。エザナ王の時代かな。アクスムは強大な貿易帝国で、紅海を通じてインドやローマとも繋がっていました。このコインが遠く離れた土地で見つかることも珍しくありません。」私は身を乗り出した。「例えばどんな場所で見つかっていますか?」学芸員は不思議そうな顔をしながらも答えてくれた。「東アフリカ沿岸部の遺跡からも出土していますよ。ソマリアの古い港町の跡とか、ザンジバル島で発見された例もあります。」ソマリア、そしてザンジバル…私は心の中で次の国々の名前を反芻した。 祖父の日記のページを捲ると、やはり次に彼が向かった先として「ソマリア」の字があった。私はリナとタクヤに顔を上げ、「次はソマリアに行こう」と告げた。タクヤは少しためらい「ソマリアって内戦のニュースとかで有名だけど…大丈夫なのか?」と心配そうだ。リナは優しく微笑んでタクヤの肩を叩いた。「大丈夫よ、私たちが行くのは歴史を訪ねる旅なんだから。危険は避けつつ、ちゃんと見るべきものを見に行きましょう。」タクヤも覚悟を決めたように頷いた。「よし、それじゃソマリアの首都モガディシュに向かうか!」こうして私たちはエチオピアで古代帝国の記憶に触れ、次なる冒険の地ソマリアへと踏み出すのだった。 第4章 ソマリア――インド洋交易の記憶と詩の国 機内から見下ろした海岸線は、エメラルド色の海と白い砂浜がどこまでも続いていた。私たちはソマリア連邦共和国の首都モガディシュに降り立った。かつて「インド洋の真珠」と謳われた港湾都市だが、空港には武装した兵士の姿も見え、一瞬身が引き締まる思いがした。それでも、空港を出ると目の前には紺碧の海が広がり、強烈な陽射しが波間に反射している。「首都モガディシュ…緊張する名前だけど、綺麗なところだな」とタクヤが呟いた。リナも息を飲んで海を見つめる。「本当…ここが長い間内戦に苦しんだなんて信じられないくらい穏やかに見えるわ。」 市内に入ると、戦禍で傷んだ建物も目立ったが、ところどころに歴史的なたたずまいが残っていた。オールドタウンの裏路地を歩くと、白い石造りの古いモスクのミナレットが空に向かってそびえている。13世紀に建立された四本の柱のモスク(アルバ・ルクン・モスク)だという。「こんな昔からこの街は栄えてたんだな…」とタクヤが感心する。私は祖父の日記の一節を思い出していた。「モガディシュにて。大海に面したこの都は、かつて商人たちの富と知恵が集う大都市であった。人々は詩を愛し、異国の品々が市場に溢れていた。」 「詩を愛し、異国の品々…か」私は呟き、続けた。「14世紀にこの街を訪れたモロッコ人の旅行家イブン・バットゥータも、モガディシュは驚くほど大きく豊かな都市だと書いているよ。食事でもてなされ、商人たちは絹の服を着ていたとか。」リナが目を輝かせる。「シルクの服?遥か遠い中国の絹もここに来てたのね!」「ああ。東アフリカの沿岸には、インドや中国、アラビアから沢山の品物が運ばれてきたんだ。ソマリアの港町はまさにインド洋交易のハブだったんだよ。」そう説明しながら、私は目前の荒れた港を見つめた。かつてここに無数の帆船が出入りし、香辛料や金、象牙に綿織物が取引されていた光景を想像する。 リナは砂浜にしゃがみ込み、小さな欠片を拾い上げた。「見て、これ…模様のある陶器の破片みたい。」それは青と白の絵柄が入った陶片だった。私はハッとしてそれを受け取った。「中国の青磁かもしれない。」祖父も似たような破片を日記に挟んでいたのを思い出す。「ソマリアの遺跡から、中国の陶磁器が見つかることがあるんだ。遥々中国の明の時代に、この海を渡って来たんだろうな。」タクヤが笑った。「大昔のシルクロードの海バージョンってわけか。ロマンあるねえ!」リナも微笑む。「祖父さんのコインもこの港にたどり着いて、新しい交易船に積み替えられたのかもしれないわ。」 私たちは砂浜に腰を下ろし、インド洋の潮風を感じていた。遠く水平線には大小の船影が見える。タクヤがふと思いついたように言った。「そういえば、昔の海賊とかもこの辺にいたのかな?お宝とか埋まってたりして!」私は肩をすくめた。「さあね。でも17~18世紀にはインド洋にも海賊がいたらしい。ソマリアの現代の海賊とは別に、昔はヨーロッパ人の海賊もね。」リナがはっとして私を見る。「そうだ、祖父様の日記に次の目的地が書いてあったわ。確か…セーシェルだったんじゃない?」私はページを繰って確認する。「うん、次はセーシェルだ。インド洋の孤島…そして確か昔、海賊が隠れ家にしてたって噂の島国だ。」 「海賊の隠れ家!」タクヤの目が輝いた。「本当にお宝探しになってきたぞ。」私は笑いながら立ち上がった。「真相はわからないけど、祖父がなぜそこに向かったのか確かめよう。」こうして私たちは、アフリカ大陸を離れ、遥かなインド洋に浮かぶセーシェルへと旅立つことにした。 第5章 セーシェル――孤島の宝と女王陛下の街 インド洋をひとっ飛びし、私たちはセーシェル共和国に到着した。首都ヴィクトリアは世界でも指折りに小さな首都だ。空港から市街地まで車であっという間、カラフルな建物が並ぶ穏やかな港町に着いた。どこか南国の楽園の雰囲気で、人々ものんびりと歩いている。タクヤが時計塔を指さした。「あれ、ビッグベン?」 街の中心に立つ小さな時計塔はロンドンのビッグベンを模したもので、ヴィクトリアのランドマークになっている。「イギリスの植民地だった名残ね。首都名も女王ヴィクトリアから来ているし」とリナが説明する。 セーシェルは115の島々からなる群島国家だ。18世紀にフランス人が入植するまで無人島だったため、住民はアフリカやヨーロッパ、インドなど多様なルーツを持つ人々の子孫だという。街ではクレオール語が飛び交い、フランス語混じりの優しい響きが耳に心地よい。私たちは市場で南国のフルーツを頬張りながら、一息ついた。ソマリアまでの緊張感が嘘のように、ここでは平和な島時間が流れている。 「さて、祖父の日記によれば…」私はヴィクトリアの国立博物館を訪ね、館内を見て回った。小さな博物館だが、航海時代や植民地時代の史料が収められている。海図や古い航海日誌、そして一角に展示されていたのは巨大なココ・デ・メール(海のココヤシ)の実だった。タクヤが思わず抱え上げてみる。「うわ、でかい!これが宝か?!」それは人間の頭ほどもある双子の椰子の実で、セーシェル固有の世界最大の種子だ。リナがくすくす笑う。「それは宝じゃなくて植物よ。でも昔はこの実が海を漂着するのを見た人々が、『海の中にある幻の木の実』だって珍重したんですって。まさに自然の宝ね。」 博物館の館長が私たちに声をかけてくれた。展示の海図に見入っていた私たちに気づいたのだ。「興味がありますか?」白髪の館長はニコニコしながら、ガラスケースの中の一枚の古びた地図を指した。「これは18世紀の海賊が残した暗号地図といわれています。セーシェルにはかつて海賊ラ・ブーズ(ラ・ビューズ)の財宝伝説がありましてね。」タクヤが食いついた。「財宝伝説!」館長は愉快そうにうなずいた。「ええ。この地図も彼の宝の在りかを示す暗号と言われ、多くの人が解読を試みましたが未だ見つかっていません。」 私たちは目を輝かせながら地図のコピーを見せてもらった。古いフランス語と記号で書かれた難解なものだが、端に描かれたインド洋の島々の形が見て取れる。リナがふと気づいた。「この地図、島だけじゃなくてアフリカ大陸の一部も描かれてるわ。ほら、ここに『Mombasa モンバサ』って読めない?」館長が感心したように頷く。「おお、その通り。ケニアの港町モンバサですな。海賊たちはアフリカ沿岸も行き来していた証拠でしょう。」私は祖父の日記を開き、セーシェルの項を確かめた。そこにはこう書かれていた。「宝の地図は海の彼方を指し示す。それは再び大陸の海岸、スワヒリの港へと誘っている。」 「スワヒリの港…モンバサだ。」私は確信した。祖父はセーシェルでこの暗号地図の存在を知り、それが示すケニアの港町モンバサへ向かったに違いない。「となれば次の目的地はケニアね!」リナが声を弾ませる。タクヤも勢い込んだ。「よーし、宝探しも佳境って感じだな。」私は笑いながら首を振った。「まだ宝と決まったわけじゃないけど、歴史の謎は深まってきた。さあ、ケニアの首都ナイロビ経由でモンバサに向かおう。」 南の空に輝く南十字星に別れを告げ、私たちはセーシェルを後にした。次なる舞台はアフリカ大陸、ケニアだ。 第6章 ケニア――スワヒリの要塞と二つの都 私たちはアフリカ大陸に戻り、ケニアにやって来た。まず足を踏み入れたのはケニアの首都ナイロビ。標高の高い高原に位置するこの都市は、エチオピアのアディスアベバに次ぐアフリカ第二の高地首都だ。名前の由来はマサイ語で「冷たい水」を意味するという。空港から見える高層ビル群とその向こうに霞む草原の景色が対照的だった。タクヤが車窓からキリンの看板を見つけてはしゃぐ。「ナイロビ国立公園って市街地のすぐ近くに野生動物がいるんだろ?すげえ!」リナは苦笑した。「残念だけど観光してる時間はないわ。私たちには次の目的があるもの。」 私たちはナイロビから一気に東へ向かった。かつてイギリスが内陸と海岸を結ぶために敷いた鉄道(いわゆる「ウガンダ鉄道」)とほぼ同じルートを、新しく開通した列車が走っている。窓から眺める大地は次第に乾燥したサバンナへと変わり、シマウマの群れが遠くに見えた時にはタクヤが歓声を上げた。半日ほどで辿り着いた終点はインド洋岸の港町モンバサだ。 モンバサに降り立つと、湿った海風の中にスパイスの香りが混じって鼻をくすぐった。ここは古くからスワヒリ文化の中心地の一つであり、16世紀末にはポルトガルが勢力を伸ばしていた場所だ。町の誇りであるジーザス要塞(Fort Jesus)へ向かうと、その堂々たる石造りの城壁が私たちを出迎えた。1593年にポルトガル人が築いたこの要塞は、幾度となくオマーンのアラブ勢力や地元のスワヒリ商人たちとの争奪戦の舞台になった歴史を持つ。リナが城壁に触れながら言った。「まるで歴史の傷跡ね。壁に砲弾の跡が残っているわ。」私は頷いた。「ポルトガルはこの要塞でインド洋貿易を支配しようとしたけど、最終的には17世紀末にオマーン軍に奪われている。この地は大国が奪い合った要衝だったんだ。」 タクヤは海に突き出た要塞の見張り台から双眼鏡を覗いていた。「宝の地図は…と。」彼はまるで海賊船の船長にでもなった気分のようだ。私たちは館長の許可を得て、要塞内部の古井戸や地下室も調べさせてもらった。しかし、さすがに伝説の財宝箱など見つかるはずもない。代わりに、小さな展示室で一冊の航海日誌の複製を発見した。18世紀にこの地に駐屯していたオマーン人提督の記録だという。リナがページをめくり、その一節を指でなぞった。「…『ザンジバルに送る』と書いてあるわ。何かの宝物をザンジバルに送ったみたい。」私は興奮を抑えきれなかった。「ザンジバル!きっと次はタンザニアだ。あの島もインド洋交易の鍵となる場所だから。」 ちょうど祖父の日記にも、「モンバサにて手がかり得たり。ザンジバルへ急ぐ。」と簡潔に記されていた。やはり祖父もここで次の目的地を悟ったのだ。タクヤがうなだれる。「結局宝は空振りかぁ…」私はタクヤの肩を叩いて笑った。「いや、宝そのものよりも、僕たちは歴史の宝を拾っているのさ。さあ、落ち込む暇はない。タンザニアに向かおう。」リナがタブレットで航空券を手配しながら付け加える。「タンザニアの首都はドドマだけど、まずは沿岸のダルエスサラームかザンジバルに行くのが近そうね。」こうして私たちはケニアを後にし、スワヒリ海岸の歴史を辿って次なる国タンザニアへと旅立った。 第7章 タンザニア――スパイスの島と二つの歴史 東アフリカの大地を踏みしめ、私たちはタンザニア連合共和国にやって来た。正式な首都はドドマだが、まずはインド洋沿岸の大都市ダルエスサラームに降り立つ。名前の意味はスワヒリ語で「平和の家」。かつてタンガニーカと呼ばれたこの地がドイツやイギリスの支配下にあったころ、行政の中心だった街だ。高層ビルが立ち並ぶ都会の喧騒を抜け、私たちはフェリーで沖合のザンジバル島へ向かった。 ザンジバル島に上陸すると、空気が一変した。クローブ(丁子)やシナモンの甘い香りが漂い、細い路地が迷路のように続く石造りの古い町並みが迎えてくれる。ここストーン・タウンはザンジバルの旧市街で、オマーン・アラブ風の扉やバルコニーが異国情緒を醸し出す。リナが感嘆の声を上げた。「まるでアラビアンナイトの世界ね…!」 19世紀、この島は“スパイス諸島”として世界に知られ、クローブなど香辛料の貿易で栄えた。私が説明を補足する。「1840年にはオマーンのサイード大王が首都を本国のマスカットからここザンジバルに移したほどだ。奴隷貿易や象牙取引の中心地でもあったんだ。」タクヤが渋い顔をした。「奴隷貿易…悲しい歴史だな。」私は頷く。「うん。でもその歴史を乗り越えて、この島は今も多文化共存の証人として残っている。」 私たちはストーン・タウンの路地を歩き回り、スルタンのかつての宮殿「ワンダーハウス(驚異の館)」や、奴隷市場跡の記念碑などを見学した。祖父の日記にはザンジバルでの記述が詳しく残されていた。「スパイスの香る市で、古き石畳を踏みしめる。ここに大陸から運ばれし財が集積され、また海彼方へと送り出された。」私はそんな文章を読み返しながら、祖父が歩いたであろう同じ路地に思いを馳せた。 その日の夕暮れ、私たちは港に佇みインド洋に沈む夕日を眺めていた。リナがぽつりと言った。「タンザニアという国名は、このザンジバルとタンガニーカが合わさってできたのよね。1964年に統合してできた国…まさに歴史の融合ね。」私は夕焼け空を見上げながら答えた。「そうだね。一つの国の中に、アフリカの大地とアラブの海洋世界の両方の歴史が息づいている。」タクヤが思い出したように声を上げる。「そういえばザンジバルってイギリスとの戦争が38分で終わった記録があるんだろ?世界一短い戦争!ガイドブックで読んだぜ。」私とリナは顔を見合わせて笑った。「ええ、1896年のイギリス・ザンジバル戦争ね。新しいスルタンを巡る砲撃戦がたった38分で終結したの。」歴史の教科書では大事件ではないかもしれないが、タクヤにとっては大いにウケたようだ。「はは、こいつは覚えやすい歴史トリビアだ!」 冗談を交わしつつも、私たちの心には一つの次なる目標が浮かんでいた。祖父の日記の続きを開くと、「次は南方のマダガスカルへ向かう」とある。ザンジバルからさらに南西へ、インド洋上に横たわる大島だ。「マダガスカル…アフリカ最大の島ね」とリナが地図で位置を確かめる。タクヤがロマンチックに空を見上げた。「月の島から今度は大きな赤い島か。わくわくするな!」私たちは決意を新たにした。スワヒリ海岸の歴史を胸に、次はいよいよマダガスカルへ、そして旅も終盤に差し掛かる。 第8章 コモロ――「月の島」のスルタンたち 小型機に乗り換え、私たちはインド洋上に浮かぶ小さな国、コモロ連合に向かった。飛行機の窓から見下ろすと、深い青の海に緑の島々が点在している。グランドコモロ島に着陸し、首都モロニの空港に降り立つと、目前には雄大な火山カルトラ山がそびえていた。タクヤが仰ぎ見て呟く。「おいおい、あれ噴火したりしないよな?」私は肩をすくめた。「カルトラ山は活火山だけど、今は大人しいさ。心配性だな。」リナが空を指差し微笑む。「でもこの島々が『月の島(ジャジラル・クマール)』って呼ばれる由来にはロマンを感じるわ。夜になればきっと美しい月が見えるでしょうね。」 港町モロニに出ると、街並みは素朴でのんびりとしていた。白い壁のモスクやヤシの木陰の市場があり、香ばしい焼きとうもろこしの匂いが漂う。人々はカラフルなリブア(腰巻)をまとい、アラビア語由来の挨拶「アッサラーム・アライクム」が聞こえてくる。「ここもイスラムの文化圏なのね」とリナ。私は頷いた。「10世紀頃にはペルシャのシーラズから来たと伝わる商人たちがイスラムを伝え、島ごとにスルタン(君主)を立てていたんだ。このモロニもスルタンの都だった。」かつてモロニはグランドコモロ島のスルタンの居城があった場所だという。残念ながら今は遺跡が僅かに残るのみだが、想像をかき立てるには十分だった。 私たちは市場で名産のイランイラン(芳香植物)の香油を手に取った。タクヤが匂いを嗅いで「うっ、強烈!」とむせる。「これは高級香水の原料だよ。コモロは『香料諸島』とも言われて、昔から香油が有名なんだ。」と説明すると、リナが目を輝かせた。「モロニの人たちがお洒落なのはそのせいかしらね。」確かに、通りを行く女性たちからは南国の花の香りがほのかに漂ってくる気がした。 歴史をひも解くと、コモロは古くからアフリカ大陸とマダガスカルの中継地点でもあった。15世紀以降、スワヒリ商人や「シラジ」(ペルシャ由来の移民)と呼ばれる人々が島に定住し、アフリカ本土から象牙や奴隷を運び込み、ここからインド洋交易網へ送り出していたという。祖父の日記にも、「月光の下、コモロの港にて本土から来た隊商の終着を見る。ここで陸と海の物語が交錯する。」とあった。私は遥か西の大陸に思いを馳せ、アフリカ内部から運ばれてきた品々がこの港で船に積み替えられる光景を想像した。 タクヤが地図を指しながら言った。「ところで…隣にあるでっかい島、マダガスカルはどうする? こんな近くまで来て行かない手はないよな。」 リナも頷く。「確かに、アフリカ最大の島だもの。この旅の流れからしても外せないわ。」私は祖父の日記を繰りながら微笑んだ。「もちろん祖父も訪れているよ。次の目的地はしっかり『Madagascar』と書いてある。」南西の水平線上には見えないが、あの巨大な赤い島が私たちを待っている。 夜、モロニの海岸で満天の星空を仰ぎ見ると、一際大きな月が雲間に顔を出した。月光は波間に銀色の道を描いている。「月の道を辿って行けば、マダガスカルに行けそうね」とリナがロマンチックにささやいた。タクヤが笑って腕を伸ばす。「よし、その月明かりを道しるべに進もう!」私は静かに海に向かって頷いた。旅は終盤に差し掛かるが、まだ大いなる謎が残っている。私たちは心を引き締め、次なる冒険の地マダガスカルへと飛び立つ準備を整えた。 第9章 マダガスカル――赤い大地と海のかなたのルーツ 早朝、私たちを乗せた双発機が巨大な島の上空に差しかかった。眼下には赤茶けた大地と緑の森が広がっている。アフリカ大陸の東沖に横たわる世界で四番目に大きな島、マダガスカルだ。首都アンタナナリボに到着すると、丘の上に広がる街並みに圧倒された。アンタナナリボとは「千人の人」という意味だというが、実際には百万を超える人々が暮らす賑やかな都だ。タクヤが「アンタナ…ナリ…ボ…覚えづらい!」と苦戦しているので、リナが「みんな縮めて『タナ』って呼ぶらしいわ」と教えると、「じゃあ俺もタナって呼ぼう」と即採用していた。 街を歩けばフランス植民地時代の建物と、木造の伝統家屋が混在している。丘の頂には王宮(ロヴァ)の遺跡があり、19世紀に島を治めたメリナ王国の栄華を今に伝えていた。私たちは王宮跡を見学しながら、マダガスカルの独特な歴史について話し合った。「この島の人々って、アフリカ人と東南アジア人の混血なんだよね?」とタクヤ。「そう、最初にマダガスカルに人が移り住んだのは紀元前後のことで、なんとインドネシアやマレーシア方面からカヌーで渡って来たと言われているの」とリナが答える。「その証拠に言語もアフリカというよりマレー・ポリネシア系なのよ。例えば‘手’はマダガスカル語でタナナ、インドネシア語ではタングァン(tangan)…ほら似てるでしょ?」タクヤが感心して目を丸くした。「本当だ!島そのものが海を越えた文化の証なんだな。」 一方で、後世にはアフリカ大陸からバンツー系の人々も渡ってきて、この島はまさに東と西の出会う場所となった。祖父の日記にもマダガスカルでの所感が記されている。「東方の言葉と西方の顔立ちが混じり合うこの赤い大地に、人類の壮大な航海の記憶を見る。」私たちは市場に立ち寄り、珍しい果物や手工芸品を眺めながら、祖父の言葉に思いを馳せた。バオバブの木で作られた置物や、ズマ(儀式用布)が並ぶ露店に、島の豊かな文化が垣間見える。 タクヤは少しそわそわしている。「なあ、マダガスカルといえばキツネザルは見られないのか?」するとタイミング良く、小さな影が市場の屋根からひょいと姿を現した。大きな目をしたキツネザルが一匹、屋台の果物を狙っている。「あ!あれじゃないか!」タクヤが指さすと、キツネザルは器用にバナナを一本かっさらい、屋根裏へ消えていった。私とリナは笑って拍手した。「これで心残りは無くなったでしょ」とリナ。タクヤは頷き、「ああ、マダガスカルらしい場面をバッチリ見届けた!」と満足そうだ。 夕方、私たちはアンタナナリボ郊外の高台から広大な風景を眺めた。赤土の台地に陽が沈み、空が紫に染まっている。旅も残すところあと一国、祖父の手帳の最後のページには目的地が記されていた。「Malawi マラウイ」。私は静かに読み上げた。「祖父は最後にアフリカ大陸の内陸、マラウイに向かったんだ。」リナが地図帳を開く。「マラウイといえば大きな湖がある国ね。昔はニアサ湖って呼ばれた…あ!」彼女は指で示して続ける。「ここよ、マラウイ湖。19世紀に探検家のリビングストンが‘星の湖’と呼んだ場所。内陸アフリカの中心で、きっと大陸内部の歴史の鍵があるはずだわ。」タクヤも大きくうなずいた。「沿岸と島をずっと巡ってきたけど、最後に内陸に入るんだな。祖父さんもそこに何かを感じたんだろう。」 こうして私たちはマダガスカルを後にし、旅の最終目的地マラウイへと向かうことになった。大地の奥深く、我々を待つものは何だろうか——胸の高鳴りを感じながら、私たちは飛行機の窓から遠ざかるマダガスカルの赤い土に別れを告げた。 第10章 マラウイ――大地の真実と旅の終わり アフリカ大陸の内陸部、私たちはついに旅の最後の国マラウイに足を踏み入れた。首都リロングウェの空港に降り立つと、沿岸や島国とはまた違う穏やかな空気が流れていた。リロングウェ市内は近代的なビルと緑豊かな並木道が調和し、「アフリカの温かい心」と呼ばれるこの国らしい素朴な優しさが感じられる。タクヤが「マラウイってどんな意味なんだ?」と尋ねると、リナがガイドブックを繰りながら答えた。「チェワ語で‘燃える炎’って意味らしいわ。昔、この地を治めていたマラヴィ王国の名前に由来するんですって。朝焼けがまるで炎のように湖面を染めたからとも言われているわ。」 私たちは首都から車で数時間走り、マラウイ湖のほとりへ向かった。道中、赤い土の大地とバオバブの木が広がり、ところどころに茅葺き屋根の村が見える。子供たちが手を振りながら走って追いかけてきた。「素朴であたたかいね」とリナが微笑む。タクヤもうなずいた。「都会の喧騒とは無縁だな。心が洗われるよ。」 やがて視界が開け、巨大な湖が姿を現した。マラウイ湖——アフリカで三番目に大きい淡水湖で、その広大さはまるで内海のようだ。湖畔の砂浜に立つと、透明な水が寄せては返し、遠く対岸は霞んで見えない。「まるで海みたい…」とリナがつぶやく。私は祖父の日記の最終ページを開いた。「マラウイ湖畔にて。過去にこの湖から連れ去られた魂に思いを馳せる。歴史の悲しみと希望が波間に揺れる。」その言葉を読み上げると、私たちは静かに湖面を見つめた。 19世紀、この湖は東アフリカ奴隷貿易の悲劇の舞台でもあった。スワヒリ商人たちがこの内陸まで遠征し、周辺のヤオ族などが捕らえた奴隷たちを連れ出して、長い隊商を組んで海岸へと向かったのだ。タクヤが悔しそうに拳を握る。「ここから沢山の人が引き離されていったのか…。俺たちが巡ってきたザンジバルやコモロの市場に。」私は静かに頷いた。「ああ。でもその歴史を止めようとした人もいた。例えばこの湖を‘星の湖’と呼んだ探検家リヴィングストンは、奴隷貿易の実態を世界に訴えて廃止に貢献したんだ。」リナが遠く水平線を見つめる。「過去の悲劇を乗り越えて、今私たちがこうして自由に旅できていること自体が希望の証かもしれないわね。」 夕暮れ時、湖面に無数の煌めく光が浮かび始めた。漁火だ。漁師たちのランプがまるで星空を映したように湖に瞬いている。その光景はかつてリヴィングストンが「星が降りしきるようだ」と書き記したのと同じものだった。「綺麗だな…」とタクヤが息を呑む。私の目にも涙が浮かんでいた。「祖父もこの景色を見たかったんだろうか。」私は胸の中で祖父に語りかけた。歴史の謎を追い求めた旅は今終わろうとしている。祖父が生涯をかけて伝えたかったもの——それはこの広大な世界が実は繋がりに満ちているという真実だったのかもしれない。 リロングウェに戻る前、私たちは湖畔の砂に腰を下ろし、最後の夜を過ごした。満天の星空の下、波音が優しく耳元を叩く。「振り返れば、すごい旅だったな。」タクヤがぽつりと言う。「歴史って退屈な授業かと思ってたけど、とんでもない。まるで宝探しみたいで、笑って驚いて、時には胸が痛くなって…」「ええ、本当に。」リナがしみじみとうなずく。「首都の名前も全部覚えちゃったわ。アスマラ、ジブチ、アディスアベバ、モガディシュ、ヴィクトリア、ナイロビ、ドドマ、モロニ、アンタナナリボ、リロングウェ…。どれも単なる地名じゃなくなったもの。」 私は静かに付け加えた。「祖父のおかげだよ。そして君たちのおかげでもある。ありがとう。」三人で顔を見合わせ、はにかみながら笑う。旅立つ前と比べて、私たちの絆は確実に深まっていた。遠く東の空がわずかに白み始め、やがて朝日が昇る頃、私たちは立ち上がった。「さあ、帰ろう。」そう言って私は一歩踏み出す。祖父から託された冒険は終わった。しかし、私たちの中に芽生えた知恵と友情の物語は、これからも続いていくのだと信じながら——。